こころの定年 セミリタイア

悪い我慢を続けて人生を棒に振った人  不器用にしか生きられない

今日の「関口宏のもう一度!近現代史」

毎週欠かさず観てる好きな番組のひとつであるBS-TBS

関口宏のもう一度!近現代史

 

今日は、昭和16年7月~10月まで進んだ。

いよいよ対米戦争へのカウントダウンである。

 

たいだいこんな流れでした。

 

7月2日 

 御前会議    

 ・対英米戦争やむを得ず(一方で、対ソ戦準備も行う)
  石油を求め南進を決定する。

  英米との摩擦が避けられないが開戦仕方なしの意見が大半となる。       

 

 ここで理解できないのが、日ソ中立条約をこの4月に結んだばかりなのに、

 対ソ戦準備に取り掛かるということ。  

 実際この時期に、満州に50万人も兵力を集め大演習も行った。     

 独ソ戦によりソ連が消耗しているので、隙あらば一戦交えたいというのが陸軍の

 考えだったようだ。

 結局、ソ連軍が極東戦力を維持したままなので、

 手を出せずに対ソ開戦は見送りとなった。

 

7月18日  

  第二次近衛内閣総辞職     

  ・松岡洋石外相だけを外して、第三次近衛内閣を組閣。
 

  対米強硬派の松岡を外したいという昭和天皇の意向を近衛が考慮した形。


7月25日 

  米「在米日本資産凍結」を発表。経済封鎖。
    

 きっかけは、先の満州での大演習実施と南部仏印進駐を試みようとしている

 ことへの警告。 アメリカは何もしてこないだろうという楽観が崩れた。

 

7月28日 

  南部仏印(今のベトナム)へ進駐開始    

  これにより英領マレー(シンガポール、マレーシア)と

  蘭領東インドインドネシア)へ南進の足掛かりになった。

 

8月1日 

  米「対日石油禁輸」決定。英蘭も同調した。

  さらに中国を含めることでで、有名なABCD包囲網となった。

 

  石油禁輸措置を受けて、近衛首相は、ルーズベルト大統領へ

  首脳会談を打診するも応じず。(近衛は自らが直接交渉すれば道は

  開けると確信していたようだが。)

 

  一方、ルーズベルトの胸中は欧州戦線に参戦したくてたまらなかった。

  ナチスドイツを何が何でもやっつけたいという気持ちが強かった。

  しかし参戦する大義名分がなかった。

  そこで、日本に対米軍事行動を起こさせることで、

  同盟国であるドイツにも宣戦布告出来ると考えていた。

 

  なので、今さら首脳会談に応じるわけがなかった。

 

8月14日   

  英米 大西洋憲章発表       

  戦後社会の在り方を話し合う。 

  英チャーチル首相は、強くアメリカの参戦を希望。

 

9月6日  

  御前会議 「帝国国策遂行要領」に対英米蘭開戦決意と記載。

    1、10月末までの戦争準備完了    

    2、並行して対米交渉継続  

    3、10月上旬までに、日本の要求が通らなければ開戦決意

 

10月18日 

   対米交渉の不調の責任を負い近衛内閣総辞職東條英機内閣誕生
   

   軍を抑えるには対米強硬論の東條を敢えて首相にすることで、   

   毒を以て毒を制すという意図だろう。

 

   昭和天皇から東條へ対米戦決意を一度白紙に戻すように指示。

   これを受けて開戦方針をゼロリセットし、全ての項目について再検討会議

   を連日開いた。内容は、

  

   もし日本が戦争しなかったらどうなるのか?  

   中国から撤兵することは出来るのか? 

   人造石油は作れるのか?

   など十項目以上に及んだ。

   だが、10月31日に会議を終えた結果、やはり日本はもう戦うしかないという

   結論になってしまった。

 

   余談ですが、何かの本で見た表現に

   「敵、北より来れば北条、東より来れば東條」ってのがあったなと

   思い出した。北条というのが、元寇に対処した北条氏を指す。

 

 

 

   さて、次回の放送は、最後通牒ハルノートを受けて対米交渉打ち切り、

   そして ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ。。。

   昭和16年12月までを扱う。